2010年3月 3日
ヤマハの沿革
ヤマハの源流は1888年に山葉寅楠が浜松で日本最初の本格的オルガンの製造に成功したことに始まる。
寅楠は1889年に合資会社山葉風琴製造所を設立。1891年には出資引き揚げにより一旦は会社を解散するが、河合喜三郎と共同で山葉楽器製造所を設立した。1897年10月に日本楽器製造株式会社に改組した。当時の資本金は10万円であった。現在も引き継がれている、黒地に白または銀で描かれた、3本の音叉を交叉させた商標は、この直後1898年に定められている。
1916年の寅楠の死後は2代目社長に天野千代丸が就任し、ピアノ製造は一族の山葉直吉らがあたった。1921年には陸軍の要請により、航空機用の木製プロペラの製造を開始し、プロペラの実験用からエンジンも製作した。これは後のヤマハ発動機に至る事業となる。同年8月には西川楽器(西川オルガン)を合併。西川オルガンは1890年の第3回内国勧業博覧会でもヤマハに次ぐ2等賞を得るなど評価が高く、合併後も「Nishikawa」のブランドで製造が続けられていた。この1921年には家具の製作が開始されている。
1926年4月には大規模な労働争議が発生。社外の労働運動家が多く加わり105日間のストライキが実行され、会社役員宅が爆破されるなどの暴力的な騒動にまで至ってしまう。このことが原因となり翌1927年には天野が辞任。後任に住友電線の取締役であった川上嘉市が3代目社長に就任した。嘉市は住友財閥の支援も受け、経営の合理化と技術革新でヤマハの再建を果たしたと評されるが、その後に続く「非オーナーでありながら経営者の世襲」という問題を生じた川上親子3代の経営の始まりでもあった。
経営の好転後、1935年にはヤマハ初の電気楽器「マグナオルガン」を製作、1937年に管楽器製造をしていた日本管楽器株式会社(ニッカン)の経営を援助し、嘉市が監査役となるなど実質的にグループ化、総合楽器製造企業へ成長しつつあった。
しかし、時勢は戦時の雰囲気を強めつつあり、1938年には陸軍管理下の軍需工場となり、金属プロペラの生産を行い大工場になる。1944年11月には楽器類の生産は完全休止、12月にはイギリスの戦艦キング・ジョージ5世の艦砲射撃で浜松の工場が全壊するなどの被害を受け終戦を迎えた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
日本の楽器、半導体、スポーツ用品や自動車部品メーカーとして有名な会社です。
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